KAZU with TOKYO

TOKYOism2021.3.15

KAZU with TOKYO

出場機会を求めて戦い続けた男が、第二の人生でポジションを掴むまでのストーリー。彼の出発点には常に青と赤のエムブレムがあった。

KAZU with TOKYO.

吉本一謙の人生とFC東京の歴史が交わるとき、魂が共鳴し、熱い感動が生まれる。


2020シーズン最後の戦い

2020シーズン最後の戦い

2021年1月25日、池袋の会場からオンラインでLIVE配信された新体制発表会に、珍しく緊張したのか、セリフを噛みながら挨拶する青年のスーツ姿があった。今シーズンより強化部がトップチームマネジメント部とスカウティングマネジメント部に分割。後者に配属されたのが吉本一謙だった。最後は清水エスパルスで現役を退いたこの男は、月をまたぐと新任のスカウトとして古巣のFC東京に帰ってきたのだ。

「スタッフで表に出るというイメージがなかったから、緊張しました。選手だったら人前でふざけるのもキャラクターのうちになります。でも、スタッフはちがう。どう振る舞ったらいいかを悩みつつ、緊張していましたね」

波乱万丈の一年だった。2019年7月29日に完全移籍で清水に加入したが、以降はけがとの戦いが大半を占めていた。
2019年9月に受傷し、左膝内側半月板損傷で全治4カ月と診断された。年が明けて2月に再手術を施したが回復の具合は思わしくなく、6月にもう一度手術をすることになった。

その後、静岡県内でリハビリに励んだが、長年激しいプレーと手術を繰り返してきた両膝はぼろぼろ。出力が上がらない状態で引退を決意、12月9日に発表した。FC東京だけでなく、FC岐阜、水戸ホーリーホック、アビスパ福岡、そして清水のファン・サポーターに惜しまれた。
ところが、彼のシーズンはここでは終わらなかった。

12月16日、最後のホームゲームであるJ1第33節ベガルタ仙台戦の最後に2分間出場し、引退セレモニーに臨んだところまでは予定どおりだった。しかし出番はそれだけではなかった。

「(平岡宏章)監督は気を遣って仙台戦の最後に使ってくれました。それに感謝して終わったつもりだった。でも同じポジションに仙台戦でけが人が出て、監督に『(次の試合)行ってほしい。勝つためにいまのベストはおまえだ』と言ってもらった。オレは『いや、この前試合に出させてもらったから、オレはもういいです。十分満足しているので』と言ったんですが」

勝つためのチョイスはおまえだからーーと念を押され、吉本は腹を括った。

「最後に脚が壊れても自分の持っているものを出し切ります」

12月19日、パナソニックスタジアム吹田でおこなわれたJ1第34節ガンバ大阪戦に先発出場した吉本は71分間プレー、2-0の完封勝利に貢献し、有終の美を飾った。

「あれだけ自分が納得するプレーが出来るとは思わなかった。すごく怖さもあったし、最後に5-0で負けたらどうしようとも考えていたんですが(笑)、運も含めて自分のやってきたことが認められた、勝ち取ったなと思いました」

声を出す、ラインの上げ下げ、身体を張る──自分がポリシーとしていたものだけはどんな結果になっても絶対出そうと心がけた約70分間だった。

「これが最後だと思ったら入場したときに涙が出てきたし、交代したらオレが泣く前に監督も篠田(善之コーチ)さんも泣いていて(笑)、オレも涙を抑えられなかった。ああ、もうほんとうに終わったんだという感動がありました」

こうして吉本のプロサッカー選手としての人生は、熱い男たちの熱い涙で終わった。あとで話すときに笑いが漏れてしまうような、健やかな引退。「自分のなかではいちばん最後の試合が、いちばんいいプレーができた。だから何も思い残すことなく……全部出しきって終われたな(笑)、という感じですね」

それまでの積み重ねにより勝ち取ったのは勝利と会心のプレーだけでなく、引退後の仕事も、だった。筋を通すため、最初に現役引退の挨拶に向かったFC東京で、新設される部署の新たなJリーガーを発掘する仕事を打診された。こうして最後の一年間は、2021年1月25日の“カミカミ”挨拶へとつながった。



アカデミー、サポーター、クラブ愛

時計の針をさらに過去へと巻き戻してみよう。吉本は中野遼太郎、廣永遼太郎、大森理生も所属したJACPA東京FCでサッカーを始めた。コーチにはあとで「いちばん足が速くて背が高かったから合格にした」と言われたのだという。最初は試合に出ていなかった。みんなといっしょにボールを追いかけるのが楽しいというだけだった。

「小学生時代は静かなほうじゃなかったから(笑)。みんなでワイワイするのが好きだし、仲間と悪ふざけをするのも好きだし、それで仲良くなれたという人もたくさんいたと思う」

中学生となりFC東京U-15に加入すると、自然とキャプテンになっていた。コーチに指名され、責任感が芽生えた。そして、アカデミーの一員としてサッカーをしながら、サポーターの真似事を始めた。

「アカデミーに入って東京(トップチーム)の試合を観に行ったとき、当時のコーチにゴール裏のど真ん中に連れて行かれて、サポーターの方たちといっしょに応援したんです。そこで学んだことを、ほかの学年の試合を観に行ったとき、自分たちで勝手に、グランドの傍らでやり始めた。『応援しようぜ!』って言って(笑)いっしょにそこで唄ったり、自分たちも応援しながら楽しみました。東京のゴール裏の人って悪ふざけをしますよね。そういうコールをしてちょっと怒られたりとか(笑)、応援する楽しさもそこで学んで、応援してくれている人の気持ちがわかった。それもコーチのおかげでした」

これほどサポーターとアカデミーが目立つクラブもそうはないだろう。そしてアカデミーで暴れ、トップに憧れ、サポーターのように弾けた吉本は、まさに青赤の申し子だった。

「(東京には独自の色があるが)それがいいところだと思うし、アカデミー出身の選手という面も含めて応援してくれる方がいたなとすごく感じています。だから、コールしてくれたりユニフォームを買ってくれる人たちのためにがんばろうと思っていました」

プレーの面でも、まとまって戦う姿勢はその頃から出来ていたという。

「ずっと負け知らずで、中学2年生のとき、初めての全国大会だったナイキプレミアカップでそのまま優勝して、オレらってそんなに強いんだ、と知りました。まだろくにサッカーを知らないのに、それでも勝ってしまった。最後の学年までほぼ負けずに。勝たなきゃ駄目だと思うようになった。最初に優勝したからこそどこにも負けられないという意識はずっとありましたね。中学2年生くらいのときは自分で言うのもなんですが、日本で一番の選手だと思っていました。中学3年生のときにトップの練習試合に出て、そこで活躍してプロになってやろうとそのとき思いました。いまにして思えば、そのときからチームの関係者は将来のトップ昇格を見越して鍛えてくれていたのかなと感謝しています」


アカデミー時代は東京で常に争うヴェルディだけには負けられないと思っていた。
「U-15ではヴェルディを倒すためにやっている感じでした。当時からヴェルディだけには負けるなと言われていました。いまは強いチームがたくさんありますが、ヴェルディは特別な存在でした」

泥臭く勝たなくてはいけない、ヴェルディだけには負けられないという気持ち。そして仲間を応援する想い、クラブに対する愛情、ファン・サポーターとつながろうという意識は、アカデミーの時代にかたちづくられた。吉本を育てたFC東京が、サッカー人生の出発点となった。



“全消し”の誕生と後輩への想い

身を投げ出すようにして守る“全消し”というプレースタイルそのものがいつ頃始まったのか、記憶は定かではない。「身体を張るのは昔からそうだったかもしれない」と、やや曖昧だ。

「自分としては当たり前のことを当たり前にやっているだけでした。最後まで相手にプレッシャーをかける、スライディングをすることで失点の確率が減る。もっと言うと、それは足を見せることだけでも変わる。最後は突き放されてるかもしれないが、足音を聴かせるだけでも相手の行動に影響があるはず。この価値観の原点はどこかと言われると、岐阜のときもコーチにすごくそういうことを言われたし、いま思えばJ2の試合に出ながら自分のかたちにしていったのかもしれない」

期限付き移籍先の岐阜、あるいは水戸との往復を繰り返しながら、少しずつ、泥臭く守る吉本ismがかたちづくられていった。それを全消しと命名したのはアカデミー卒の後輩だった。

「全消しって、三田(啓貴)が言い出したんですよ(笑)。『もう、全部シュートコース消してんじゃん! 全消しじゃん』って、あいつが言い出して。そこからみんなが言うようになった(笑)」


言葉がひとり歩きして、いつの間にか定着した。吉本が自分で「全消し」と言ったことは一度もない。選手の口から広まり自然に発生した言葉だった。後年、岡崎慎はこの全消しスタイルを特長とする吉本のストッパー然としたプレーを指して「自分とはまったくプレースタイルが異なる吉本選手の影響を受けた」という意味のことを言っていた。これに対して吉本は「ほんとうですか」と、苦笑い。あの後輩が心の底からそう考えているかどうか疑わしく思っているようだった。

「そう言ってくれるのは嬉しいんですが……自分は特別何かをしたというわけではなく、たまにアドバイスをしたり話したりした程度です」

岡崎の言葉を信用するならば、彼は吉本の背中を見て育った、あるいは吉本と同じ空気を吸って自然に影響を受けたということになる。

「覚えているのは、J3で遠征に行ったときのこと。当時、オーバーエイジ(OA)は基本的に一人部屋だったんです。でもそのときなぜかオレはマコ(岡崎慎)と二人部屋になって(笑)。『ええっ!? みんな一人部屋でしょ?』と、動揺しました。しかもマコはめちゃめちゃ早く寝るし(笑)、なんでオレがマコに気を遣わなきゃいけないんだと――」

自分のペースを崩さない岡崎は、一回り年齡が異なる吉本からすると、とにかく不思議な性格であったらしく、どうコミュニケーションをとればよいのか始終困惑していたらしい。読み取りにくい心のなかで、岡崎は吉本に感謝していたのだろう。そんな年下の選手に対してなんだかんだで吉本は優しく、後輩想いだ。

「マコは成長のスピードにいちばんびっくりした選手です。彼は基本的に、J3の試合すべてに出ていて、たまにJ3でいっしょにプレーすると、その数週の間にも変化があった。選手ってこんなに短期間で成長するんだ、これってすごいな、と気付かされたんですよね。結果的に岡崎選手とはエスパルスでもいっしょにサッカーをしましたし、ほんとうに縁がある選手だな、と。気にしているし、心からがんばってほしいと思っています。岡崎選手はすごくかわいい後輩です」



風通しをよくした選手会長の仕事

2014シーズンから飛躍的に出場機会を増やした吉本は、東京の顔となっていった。2015シーズンに選手会長職を務めはじめ、2017年には小平市観光まちづくり大使として、小冊子『小平にこないか?』の表紙を飾った。全消しによってプレーの面で認められた吉本は、人間性の点でも、これこそ東京の男として認められた。育成年代に培った責任感、生来の社交性がプロの現場でも顔をのぞかせるようになったのだ。

「自分が試合にしっかり出られるようになって周りから認められ、自信がつき発言に説得力が出る。それを聞いてくれる人も増えてくる。その過程でチームがよくなるためにということを意識するようになりましたね。どうやったらよりチームが強くなれるんだろう、クラブにもっと一体感が出るようになるんだろう、と。アカデミー出身の選手がチームを引っ張る、それは自分がやらなきゃいけないという想いもあったし、みんなと協力する関係を築けたことがよかったなと思います」

2017シーズンに加入した髙萩洋次郎は、選手会が機能するようになった背景には当時の会長だった吉本の貢献があると言っている。

「髙萩選手はいろんなチームを知っていて優勝も経験しているから、いろいろなことを採り入れたいと思ったんです。相談にのってもらうことが多くなって、助けてくれました」

月に一回は選手の代表とクラブとの会合の場を持ち、状況を確認した。コミュニケーションがとれるようになり、クラブとチームがよりひとつになってきたという。たとえば「練習後の食事をクラブハウスで食べられるようにしてほしい」という選手からの要望をクラブに伝え、それが実現するのであれば、吉本は選手に対して「絶対食べろよ」と言い、徹底させた。「言ったからには自分たちでちゃんとやろうよと、人として当たり前のことをもう一回確認した」、と吉本は言う。

「チームにとってプラスになるように、風通しをよくしようと、そういうことをすごく意識していました」

いつもの練習前よりも15分早く選手に早く来てもらい、要件を伝えていた。駐車場の場所を決めたり、選手会でルールを決めたり――このときから吉本はピッチ外の仕事も出来る男だった。



繰り返した移籍。岐阜、水戸、福岡、清水

しかし成熟とともに、皮肉なことに出場機会が減る。キャリアの晩年、吉本は再びFC東京の外に戦いの場を求めた。2018年の夏には期限付き移籍で福岡に、その一年後には完全移籍で清水に加入した。ただこの二度の移籍も、岐阜や水戸へと旅立ったときとスタンスは変わらなかったという。

「25歳くらいまでは単年契約しかしたことがなく、むしろクビになったと思ってプレーしていました。東京に戻って活躍したいという気持ちもあったけれど、ここで活躍して見返したいという想いもあったし、そうしないとサッカーを続けられないと思っていました」

シーズンを通して出場した経験のなかった吉本は、最初の期限付き移籍先である岐阜で、毎週試合に出る状況でのコンディション維持を習得した。フィジカルコンディションだけでなく、一試合ごとに挑む気持ちの持っていき方もそうだった。人生を賭け、自身にプレッシャーをかけて毎日を過ごすことでメンタル的にも成長出来た。クラブの歴史に名を残すというモチベーションで天皇杯ベスト8を成し遂げたことはいまでも誇りに思っている。なお吉本はこの地でトレーニングジムの受付をしていた奥様と知り合い、のちに結婚している。「まあ、いい移籍でしたね」と、このエピソードを語る吉本の顔は特に和やかだ。

水戸では移籍後最初の試合となったJ2第29節大分トリニータ戦で決勝ゴール。2-1の勝利にさっそく活躍したかと思ったら翌週の第30節で即負傷、全治8カ月と診断され、ここでの挑戦は2試合のみで終わった。それでも柱谷哲二監督との出会いが現在に至るまで財産になっているという。同様のことは福岡での井原正巳監督との出会いについても言える。現役時代にセンターバックとしてプレーし、指導者となりプロ監督として責任に立ち向かう彼らの影響は確実にあった。

「柱谷さん、井原さん、日本代表でキャプテンを務めた同じポジションの指導者の方おふたりとの出会いは、ほんとうに大きかったですね。お二方とも優しいし、熱いし、助けてもらいました。学ぶことが多かった」

福岡に移籍したときは、まだ東京との契約が残っていた。契約が切れる次のタイミングにオファーがなければ即、引退につながる。実績を重ねるとともにプロの試合にふさわしいプレーが出来ると証明するためにも、活躍の場が必要だった。

「岐阜でも水戸でも、東京に帰る前提で移籍したことは一回もない。福岡にも骨を埋めるつもりで行きましたし、移籍した先で自分がそのチームにどれだけのものを残せるかが使命だと思いサッカーに向かい合っていました。今でも2018年に福岡をJ1に昇格させることができなかったことを、申し訳ないと思っています」

常にその時点で所属しているクラブがファースト、一つひとつのクラブに愛情を注ぐ――その優先順位を守り、仁義を貫いてきた。

「エスパルスにいるときに東京のためと思ったことはないです。もしエスパルスが『青赤のものは身につけるな』というクラブだったらそうします」

岐阜、水戸、福岡、清水と東京がちがうのは、アカデミーから育ててもらったクラブであるということ。たとえるなら実家のような存在だ。移籍先には移籍先でまた別の人間関係があり、たくさんの人との出会いが人生を豊かにしてくれた。



そして再びTOKYOと交わるKAZU

こうして東京にとどまらずプロサッカーの世界を泳いできた吉本が、第二の人生をFC東京で始めたのはなぜなのか。

「いちばん最初に自分がしないといけないのは、東京で引退の報告をすること」

筋を通すべく、吉本はこう考えていた。岐阜、水戸、福岡、清水には「東京に挨拶をしないといけないので、もし(そこで何もなくて)困ったときは助けてください」と、あらかじめ伝えていた。それでも心配だったのか、清水の大熊清GMは数日おきに電話で「どうなった?」と聞いてきた。「もしなんだったらオレに言ってこいよ」と、電話口の向こうから声が聞こえてきたという。

「まさか自分がエスパルスで大熊さんに引退しますと言うとは思ってもいなかった。東京のアカデミーに入ったときにトップチームの監督をしていたのは大熊さんだったから、そういうめぐり合わせってあるのかなと思ったりしましたね」

2021年1月4日のルヴァンカップ決勝が終わったあと、FC東京の大金直樹社長に挨拶をした。膝の痛みが強く指導者という考えがなかった吉本に提示されたポストはスカウティングマネジメント部。大金社長は「第2の吉本となる選手を発掘して育成してほしい」と申し出、吉本はそれを受け容れた。

「正直、いまは自分がいなくてもたぶんチームは回っていく。だけど社長は自分の働く場所をつくってくれたから、それに対してクラブのために働きたいなと思ったんですよね。それまでは正直進路を決めていなかった。ただ社長がそう言ってくれたからその場でお願いしますと言い、直属の部長である石井(豊)さんともお話して契約しました」

スカウトになると決まると、同じ職を経験した羽生直剛CNに相談をした。選手のときもともにトークショーに出演するなど信頼する兄貴分で、何事かあれば食事の場で話し合う間柄だった。以後、石川直宏CCら多くの人々に相談するなかで、吉本のなかでスカウト職への向き合い方が定まっていった。

「自分が大事にしているのはアカデミーの選手との比較。彼らのほうがいいのに、自分の仕事づくり、実績づくりのために、ほかのところから選手を獲ってくるのはちがう。アカデミーの選手よりいい選手がいないなら『いない』でいいと思うし、その『いない』ということを自信を持って言えるのがプロだと思う」

石井部長も小池知己スカウトも東京ガス時代に選手生活を送り、クラブの歴史を知る存在。他方、長く指導の現場に就いてきた塚本浩史スカウトにはスクールで権田修一や三田啓貴を教えていた経験がある。東京で育った吉本は、長い時間を過ごしてきた同僚にリスペクトの念を抱きつつ、スタッフとして東京をより強く、愛されるチームにするための戦いを始めている。

「どうして東京を愛するのか? それは、“なぜ自分の子どもや親を愛するのか?”ということと同じ」

胸いっぱいに詰まった青赤の魂を思い起こし、“KAZU”はここ東京で新たなキャリアのスタートを切る。






吉本一謙(よしもと・かずのり)プロフィール
FC東京のアカデミー出身。2007年にFC東京でプロデビューし、2020年に現役引退。
引退後の現在はFC東京のスカウティングマネジメント部に所属。


Text by Masaru Goto
photo by Kenichi Arai