コロナ禍以前のことになる。
メディアには小平グランドのクラブハウス一階のスペースが控室として提供されていたが、ここは玄関とピッチへの出入り口と二階への階段とを結ぶ通り道であり、FC東京U-18の選手も毎日そこに顔を出していた。記者がトップチームの取材をしてひととおりの作業を終える頃、夜の練習に参加する高校生たちがやってくる。
高校一年生の波多野豪がひょっこりとコート側からベランダの引き戸を開けて顔を出したのはもう7年も前のことだ。自身の恵まれた体格について「まだ伸びてます」と答えたりしていたように、おぼろげに記憶している。平山相太に似ている、という“ネタ”も、既に開陳していたように思う。規格外の存在だと認識させられた。鮮やかな印象があった。
この子は必ずプロになるだろうという周囲の確信は裏切られることなくトップチームに昇格し、ポジションは異なるが平山氏の背番号13を継承。いまや正ゴールキーパーとして東京のゴールマウスを守る存在になっている。
一見、とんとん拍子。
しかし彼のゴールキーパー人生の始まりは意外に遅く、小学4年生のときだった。
FWからGKへ、小4の転身
FC東京サッカースクールとスクールのアドバンスクラスで指導を担当していた秋山敬貞U-15むさしコーチは“コンバート”の背景をこう教えてくれた。
「ちょうどゴールキーパーにも足もとの技術が必要だと叫ばれるようになった頃。しかし最初から専門職の子ではややおぼつかないところがある。その点、彼は所属の街クラブ(武蔵村山1FC)ではフォワードで、フィールドプレーヤーとしての要素を満たしている。そこで意図的に手袋を渡し、違和感のないようにフォワードもキーパーも両方やりながらちょっとずつキーパーになるよう仕向けていったんです」
小学生の時点で身長は約180cm。遺伝的なものだろう、素材としては抜群だった。他クラブの指導者も「キーパーはやらないの?」と言ってくるほどだった。
「いい意味で明るくて元気。エネルギッシュな子だった」(秋山コーチ)
トップチームでも大きな声を張り上げるやんちゃなお調子者というキャラクターで通っているが、それは小学生時代の天真爛漫さが失われていないことの証であるようだ。
秋山コーチはそこを人間力の発露としてポジティブに捉えていた。
「指導者によっては苦手と思ってしまうかもしれないですね。落ち着きがなかったり、指導しづらい面はあったかもしれない。でも人間性の点でマコが讃えるくらいエネルギーがあったし、怒ればすぐシュンとする。子どもらしい子ども、という捉え方でぼくらは見ていました」
マコとはFC東京U-18時代に波多野とともにプレーしていた岡崎慎のことだ。彼のポジションはセンターバック。指示の声はさかんに発していたものの、チームを盛り上げるような声を出すのは得意ではない。そこを豪がやってくれていた――と、感謝の念を述べていたのだ。
岡崎は高校時代をこう振り返る。
「豪は安定感がありました。うしろがあれだけ声を大きく出し、盛り上げてくれると助かる。U-18がいいチームになっていたのも、彼の人柄によるところが大きい。信頼されるのはそこから。長所だと思っています」
復帰が間近に迫ってきている林彰洋も、その点で高い評価を与えている。
「ぼくが持っている理想像では、ゴールキーパーが発言力を持っていないといけない。いかに自分の声でチームをポジティブに声掛けできるようにするか、それがキーパーのひとつの使命だと思っています。会話をすることはキーパーの大事な要素のひとつです」
おとなしい子どもが多い現代、波多野のようなパーソナリティは希少になってきている。日本の尺度では突出してしまう性格だが、ブラジル出身の秋山コーチはそれを肯定的に認め、「ぼくは子どものストライクゾーンがめちゃくちゃ広いので、どんな子どもでもなんとかしたい」と言う。
「子どもたちにはいろいろなエネルギーの出し方がある。それを把握し、大人に進んでいく姿を見守ることがぼくらの仕事。豪は全然アリだった。真面目なコーチはしつけが難しい思うかもしれないですが、成長段階というものがある。最近久しぶりに会話をしたら大人になっていて、選手は必ず成長するんだなとあらためて感じ取らせてもらいました」
あり余るエネルギーを的確に制御することさえできれば、大物へと導くことも不可能ではない。周囲の温かいまなざしが“豪”を豪快なゴールキーパーへと育てていった。
波多野自身はゴールキーパー人生の始まりとなった小学生時代をこう振り返る。
「母がぼくにすごく力を注いでくれました。いつも言われていたのは『誰がどこで見ているかわからない』ということ。FC東京のスクールでも地元クラブの試合でも、常にセレクションだと思ってプレーしなさいと言われていました。コーチの秋山さんには、練習や試合に入る前に『フルパワーでやれ』と言われていました。そういう言葉を信じて小学校時代、練習に励んでいました」
ゲーム形式の練習で、相手チームに大人のコーチがいる場合は負けてしまう。そこに絶対負けたくないと本気で向かっていくことで磨かれた。いつかこのコーチたちより巧くなって倒したいと思う気持ちが強くなるあまりに暴言が飛び出すと、帰り道で母の叱責が待っていた。
「ぼく、口が悪くなってしまうんですよ。母から、帰りの車のなかでめちゃめちゃ怒られていました。ここまで来られているというのは、母の存在が大きいです。強く育ちました」
肝っ玉母さんと、やんちゃな豪少年、周囲で見守る優しいコーチたち。この普及年代の輪が、やがて育成年代の厳しい競争に出ていく以前の準備を整えていた。
プロ4年目のJ1デビュー
中学生となり、FC東京U-15むさしに進んだ波多野は、唐島和義U-15むさしGKコーチのもとであらためてゴールキーパーとしての基礎を修得していった。
小学生の段階では体は大きかったもののまだスムーズに動くことができず、フィールドプレーヤーとしての癖でキャッチングの意識が足りず足で処理してしまったり、技術そのものが不足していた。そこを中学の三年間で補い、台頭した。彼の代にはFC東京U-15深川に廣末陸と山口瑠伊がいたが、山口と波多野がU-18に昇格。山口もU-18在籍中にフランスのロリアンに移籍したため、ユース時代は世代別の代表で顔を合わせる滝本晴彦(現柏レイソル)といった選手よりも巧くなることを目標に競争意識を保った。
またトップチームの練習に参加することで、Jリーグのレベルを体感。目標との距離を測った。
波多野にとって、通路を挟んで向こう側にある天然芝のコートは難関だった。
「高校2年生のときにトップチームのほうで練習参加させてもらう機会が増えて、そこであらためて現実を見たという感じがしました。全然ついていけなかった。当時は朝トップの練習に参加して、2部練習の場合は午後もトップチームでプレー、夜はユースのトレーニングとほぼ3部練習を毎日していたのでキツかったのですが、ぼくにとってはすごくプラスになったいい高校三年間でした」
権田修一、榎本達也、圍謙太朗、秋元陽太といったプロ選手は何がちがったのか。
「技術面もそうですけれども、ついていけないんですよ。スピードじゃなくて一つひとつのパワーだったり、そういうところがまだまだ筋力的にも全然ちがうなと思いました。シュートを止められるという感覚はありましたけれども……下半身だったり体幹、腕の筋肉もそうですし、パワーがあると一歩の瞬発力がちがう。ぼくはただただ倒れているだけだった。そこが足りないと思いました」
トップチーム昇格後、一学年下の後輩たちが、自らが果たせなかったプレミアリーグEAST制覇とチャンピオンシップ優勝を果たす光景を喜びながら、波多野はプロの規格に見合った選手に成長するべく地道な積み重ねをつづけた。それを試す段階に来たのが背番号13を身に着けた2019シーズンだった。この年、波多野はJ3リーグで自己最多の23試合に出場。貴重な経験を積んだ。
「そこで少し自信になり、ゲーム勘も養われたと思います。J3はJ1とレベルがちがう。それでもキャプテンマークを巻かせてもらい、チームのリーダー的なポジションで試合に出させてもらったことは貴重な経験になりました」
2008年からのゴールキーパー人生も13年目を迎えた2020シーズン、準備は整っていた。J1第8節でサガン鳥栖に敗れたあとの第9節セレッソ大阪戦で、波多野はJ1デビューを果たした。場所はヤンマースタジアム長居。相手にはむさしで2学年上の先輩だった坂元 達裕がいた。
「前日練習はめちゃめちゃ緊張していたんですけれども、大阪の地に足を運んだときにはいつもどおりの状態ではありましたし、自信もあったので、あとは結果を出すだけだなと思っていました。(当日)緊張はなかったですね。ファーストプレーは右からクロスを上げられ、合わせられて(室屋)成くんがクリアしてくれたんですけれども、そこでよりいっそう気持ちが入り、次はオレが助けないと、と思いました。あのワンプレーがあって気持ちがより高まり、いつもどおりのプレーができた記憶があります」
しかし最初の冒険は3試合目の第11節サンフレッチェ広島戦での3失点(3-3の引き分け)で終わりを告げる。この試合ではミスがやや目立ち、波多野は以後キャッチングやキックの精度を上げるべく重点的にトレーニングを積んだ。練習中のゲームでも向かい側のキーパーには絶対勝ってやるという気持ちで取り組み、技術面も居残りで磨いた。シュート練習も全部止めるつもりだった。この努力が実り、再びポジションを奪ったのは第30節の柏レイソル戦だった。その後、ACLへの出発直前に林彰洋が負傷するというアクシデントがあったが、「『オレが守るしかない』という強い気持ち」(波多野)でカタール遠征に臨み、グループステージ突破に貢献。ヘナトアウグストなど強烈な個を相手にしてタフな試合を経験したことで、一回り大きく成長した。
そして迎えた今年、2021シーズン。昨季終盤の4-3-3を継続したチームづくりがうまく進まず、苦労を重ねた。
しかし波多野は自責の思考で己を成長させ、チームの復調と歩を合わせていった。長谷川健太監督が「もがき苦しんだ5連敗の時期にあったことを忘れるな」と選手たちに伝えた。波多野もまた、敗戦を繰り返すなかでもがき、その体験をのちの堅守につなげていた。
「開幕からしばらくの間、失点は見られましたけれども、すべての責任はゴールキーパーにある。そこをぼく自身がどう防いでいくかはずっと考えていました。ディフェンスのポジションがよくてもシュートを撃たれたときにキーパーが悪かったら失点します。まずはいかに自分がどうシュートを防いでいくかを重点的に取り組んでいました」
陽気ではっちゃけたキャラクターから誤解されるかもしれないが、根はかなり真面目な性格である。試合を分析し、失点から逆算して問題点を探っていくことで解決策を見出そうとしていた。ゴールキーパーにとってノーチャンスに近いシチュエーションであったとしても、何かできたのではないかという疑問がその長考の出発点となる。
「毎試合振り返りますし、できなかったことは練習でトライ。コーチともコミュニケーションをとりながらどう失点を防いでいくかに取り組んでいます。(5戦連続の無失点もあったが)J1第21節C大阪戦も3失点していますし、まだまだ改善していかないといけない。完璧な人なんでどこにもいないので。それでもいかに難しいシュートであろうが自分が守るゴールに飛んできたら止めるということが、ゴールキーパーであるぼくの仕事。失点をするからには何か必ず原因が、相応の理由があるわけです。そこを探るために試合が終わったあと考えますし、ここができていなかったなという発見をします。逆に止めているときは、これができているから止められているということもわかる。そういうところをいつも見直しています」
この成長を林も認めていた。
「年間を通してチームをつくっていくなかで、ゴールキーパーがある程度礎にならないといけない。いま、どこまで成立させているか未知数なところは正直ありますが、少しずつそこの部分を彼なりに理解してきて役割を見出してきていると感じます」
同じ世代でディフェンスのポジションを獲ろうと奮闘中の岡崎は、波多野にこうエールを送る。
「いちばん切り替わったのは昨年の夏じゃないですかね。いまは試合に出られているから自信もついていると思いますし、すごくいい方向に成長していると思う。ただ、これからですね。林選手が復活したときにどういう立ち居振る舞いができるのか、この期間でどれだけ成長できたのかが問われる。それは豪もわかっていると思う」
この競争をくぐり抜けたとき、波多野は目標としていた高みに到達するのだろう。
目標達成を引き寄せる意思の力
彼の半生を描いて気づくのは、長友佑都にも似た自己実現能力という能力を備えていることだ。目標を設定し、そこに近づけるよう己を動かしつづける。簡単なことではない。
小学生時代の波多野には自信と悩みが共存していた。最終的には、自らを信じる気持ちが優った。
「ぼくも正直、その環のなかではあまり上手なほうではなかった。キーパーというポジションを見つけてやらせてもらって、楽しいな、と。最初はそんな感じです。小学校4年生のときに横河武蔵野FCのセレクションをゴールキーパーで受けさせてもらったのですが、ミニゲームのときはフィールドでプレーしました。そうしたらゴールキーパーでなくフィールドで来てくれないかという話をいただきました。けれども、やっぱりキーパーで受けたのでキーパーをやりたかった。ちょうど小学5年生になるタイミングでキーパーが向いているのか向いていないのか悩んで、キーパーもダメなのかもしれないと思ったりもして、でもアドバンスクラスでは試合でキーパーをやらせてもらっていて楽しんでいた時期でした。迷いながらもキーパーでやっていく後押しになったのは、東京の試合でゴールキーパーのプレーをスタジアムで観てぼくもゴールキーパーとして巧くなりたいと思ったことと、いろいろなゴールキーパースクールに行ったりして自信がついたこと。最後は絶対にやってやるという強い気持ち。U-15むさしのセレクションのときにはキーパーで勝負しようと思っていました」
秋山コーチも波多野のメンタリティには舌を巻く。
「自分はプロになるんだという気持ちは人一倍です。なかなか珍しい。あれくらいの子がいまもっといっぱいいてくれたらありがたいくらいの雰囲気が出ていましたね。いい意味で勘違いしている。彼の変わらないいい部分だと思います。あれだけ絶対に世界一になるとか大きいことを言って『大丈夫かおまえ?』と思われていても貫いてしまうのは、ほんとうに彼の特性だと思います」
まず世界一なりマラドーナなり、最高到達点に目標を置き、そこに近づけるよう努力する。結果として、ゴールキーパー初心者の小学4年生のときはよちよち歩きでも、東京のトップチームでレギュラーポジションを奪い、日本代表への意欲をあらわにするところまでやってきた。
小学生のときは味の素スタジアムでプレーし、満員にすることが夢だった。プロになりたい、東京で活躍したいという強い想いが、いつも彼を貫いていた。そしてその夢が叶いつつある現在、なおも高い目標を掲げている。
「日本代表に選ばれていないということは何かができていないということ。キーパーとして何かが物足りない。よりよい評価をいただけるためにはもっと巧くなっていかないといけないですし、向上心をもってやらないといけない。これからまだ20年、30年とやっていきたいと思うので、もっともっといいパフォーマンスができるように練習から強い向上心をもって強い意識でやっていきたい」
ここまでやってくることができた一因は、青赤を愛する気持ちかもしれない。
小学6年生の一年間と中学生の三年間、波多野は東京の試合をゴール裏から観ていた。その視線の延長線上にあるゴールマウスを守るいま、かつて自らが立っていたゴール裏からの視線を背に受け、戦いをつづけている。波多野はその喜びと使命感についてこう語った。
「やっぱり、ゴールマウスに立っているということは、東京のファン・サポーターも守っているということです。ゴールキーパーの背後にはファン・サポーターもいる。自陣のゴールにボールが入ると『ああ、入れられてしまった』と、とても嫌な気持ちになる。そうならないようファン・サポーターの気持ちも守りたいし、東京のゴールも守ります。みなさんが笑顔で楽しくぼくたちの試合を応援できるようになってもらいたいので、ゴールももちろんですけど、みなさんの笑顔だったり、楽しく観に来ている人たちの気持ちをも守っていきたいと感じますね」
岡崎が波多野の技術ではなく気持ちを褒めた理由がいまならわかる。気持ちがあるかないかでピッチ上のパフォーマンス自体も変わるだろうし、ピッチ上で表現したものを人がどう受け止めるかも変わってくるだろう。
波多野は試合に出ていないときもピッチサイドで声を出してチームのために戦い、ファン・サポーターはその姿に感じ入った。
そこが波多野豪のいいところであり、強みであるにちがいない。
身長/体重:198cm/98kg
出身地:東京都武蔵村山市
経歴:FC東京U-15むさし → FC東京U-18 → FC東京
文=後藤勝
text by Goto Masaru
写真=新井賢一
photo by Kenichi Arai