TOKYOism COLUMN VOL.05
tokyoism
Column2019.10.21

Buddy~最強のふたり~

ビッグスマイルが、ルーコンのトレードマークだった。
「初めは、それほど長くいるつもりじゃなかった」はずが、日本での挑戦は気づけば10年を数えた。
時には最上の笑顔の裏に、憂いを映すこともあった。
彼の隣で喜びと、悲しみに寄り添い、多くの時間を共にした相棒がいる。
これは、そんな2人の友情物語だ。

裏方の流儀

今季で在籍20年目のシーズンを戦う裏方がいる。通訳の飯野一徳は、歴代ブラジル国籍の選手たちを公私に渡ってサポートし続けてきた。アマラオ、ツゥット、サンドロに始まり、現在のディエゴ オリヴェイラ、ジャエル、アルトゥール シルバに至るまで多くの選手が彼の助けを借りてきた。日本で成功をつかもうとする彼らの背中を押し、共に喜び、涙もしてきた。その仕事の領域は多岐に及ぶ。

「最近の選手はあまりやらないのですが、以前は移動のバスで、冗談を言いながら、ずっとトランプをしていました。それが最初のコミュニケーションのツールなんです。でも、みんな負けず嫌いだから大変なんです。あるとき、ジャーンが負けてトランプをつかんで床にたたきつけて本気で怒ったことがあった。そのときはルーカスと2人で慌てて『落ち着けよ』ってなだめました。今は笑い話ですが、そのときは本当に大変だったんですよ(苦笑)」

そうしたやりとりを入口に、異国の地に適応する手助けをしていく。日本語の読み書きに始まり、あわ立つ心を収めるのも、家族のケアも、彼の仕事の一端だ。全てを率先してやるだけではなく、少しずつ自分たちの力で生活基盤を築くことができるようにフォローすることも大切な役割だ。そんな通訳が、この仕事に就いて20年間変わらぬ想いがあるという。

「関わった全ての選手に成功してほしいと強く思ってきました。もちろん今もその気持ちに変わりはありません」

どんなキャラクターなのか――。淡々としていて、揺らぎが少ない。だからなのか、そんな飯野さんをついつい取材中に笑わせたいと思ってしまう。気づけば、それが僕にとって取材がうまくいったかどうかの基準になってしまった。

玉砕したことは何度もある。その度に、ため息を引っ込めて次の質問を考えてきた。その繰り返しだ。その中で、一番思い出に残っているのは2013年末の“ルーコン”ことルーカス セベリーノのインタビューだろう。そこには1万8000km以上の距離を超えて結ばれた友情と、愛された男の去り際の美学が詰まっていた


そして、膝をつき合わせて目の前に座る2人は、よく笑った。今もそのことをハッキリと覚えている。


失意の帰国

ルーカスは飯野がFC東京のポルトガル語の通訳となった2000年に初めて欧州挑戦を志した。だが、鳴り物入りで加入したフランス1部のレンヌでは思うような活躍を見せられず、04年からはFC東京に活躍の場を求めた。アマラオの後継者として迎え入れられた、彼の日本での挑戦は、初めから順風満帆だったわけではない。飯野は当時のことをこう振り返る。

「新体制発表会で、自分のプレースタイルや特徴を話すじゃないですか?そのときに、スピードと、運動量が持ち味だと話していた。でも、正直言って来日当初は運動量がある選手だとは思えませんでした。だから初めは勘違いしているのかなって思ってしまいました。今思えば、その通りだと思いますが、来日した当初は体が締まっていなかったんです、あのルーカスが。後で、その当時の写真が出てきて2人で笑ったことは良い思い出ですね」

当時のルーカスはトップフォームから程遠い状態で日本に降り立った。来日当初はフィジカルトレーニングをするたびに音を上げた。試合感覚も乏しく、思い通りに体が動くようになるまで数カ月を要した。それでも、徐々に調子を取り戻すと、1年目はまずまずの成績を挙げた。だが、続く05年シーズンはけがもあり、1年目を上回る成績を残せずに苦しんだ。

その年末だった。ルーカスはクラブから今シーズン限りで契約満了になると伝えられた。当時、ルーカスに代わるブラジル人ストライカーとの契約交渉を進めていたからだった。飯野は「後で、日本でプレーして何で一番苦労したかって聞いたら、必ず彼はその時の話をします」と言い、こう続ける。

「たまに冗談で、自分からチームを辞めたいと言ったことはあったけれど、チームから辞めてくれと言われたのは後にも先にもあの1度限りだったって」

12月の成田空港、失意の中でブラジルへと帰国する後ろ姿がにじんだ。すると、獲得を予定していた新外国籍選手獲得は難航し、契約寸前で交渉は暗礁に乗り上げてしまう。東京は方針を変えてルーカスとの契約延長を望んだが、誇り高き男はそう簡単に心変わりはしなかった。

それでも、飯野は「帰ってこい」、「待っているぞ」とメッセージを送り続けた。その気持ちに絆され、ルーコンは再び青赤に袖を通した。迎えた06年シーズンは、自らの力を証明するように鬼気迫る姿でゴールを重ねた。その年のチームはシーズン途中に初の監督交替を決断するなど、安定した成績を収めることはできなかったが、終わってみればルーカス個人としては31試合に出場し、自身最多の18得点でシーズンを終えた。


突然の引退報告

08年にガンバ大阪へと移籍して以降も、2人の友情は変わらなかった。飯野は「一緒に戦いたいという思いはあったけれど、日本で順調にステップアップしていく姿はうれしかった」と、アジア・チャンピオンズリーグをはじめ多くのタイトル獲得に貢献するルーカスを陰ながら応援し続けた。

「あのルーカスが、昔は凄くヤンチャで、バッドボーイだったって言うんですよ。信じられますか?あの彼が約束の時間も守らなかったなんて全然想像がつかないですよね。それが日本にやってきて習慣や、文化を学び、それに必死に順応した。フランスへの移籍は失敗だったと言ったことはありませんが、その経験を活かして日本で成功を収めたのだと思います」

そして、10年シーズンを最後に、ルーカスは日本でのプレーに終止符を打ち、古巣のアトレチコ・パラナエンセでのプレーを選択。家族と共に母国・ブラジルへと帰国した。

一方で、東京はその年、J1リーグで16位となってJ2降格の憂き目に遭った。

翌11年の5月12日。その日は、ルーコンの愛する妻の誕生日。飯野はこれまでそうしてきたように、地球の真裏にいる友だちの携帯電話を鳴らした。「おめでとう」と「ありがとう」の後に、互いの近況報告が続いた。そこで受話器越しのルーコンは少し口ごもり、「実は…」と言ってこう話した。

「もう現役を引退したんだ。ブラジルではよくあることだが、サッカーの嫌な部分が見えてしまったんだ」

突然の報告に驚いた。

「ブラジルへと帰国するときは本当に寂しい思いをした。だけど、本人が決めたことだからと、引き留めることはしませんでした。ブラジルに戻った後も、連絡だけは取り合っていた。彼はブラジルに復帰した後も得点を重ねるなど、調子も凄く良かった。自分が育ったチームに戻ってそのまま順調にいっていると聞いていたので安心していた。けれど、その後、彼の身に良くないことが起きた。詳しい話は、僕にも言いませんでした。だから突然、引退すると聞いたときには本当にビックリしました」

飯野は、すぐに当時の大熊清監督(現・セレッソ大阪チーム統括部長)や、クラブの強化部にそのことを報告した。大熊や強化部からは、「すぐにルーカスの意志を確認してほしい」と連絡を受けた。急いで飯野は05年のときのように、「もう一度、一緒に戦おう」と話した。だが、ルーコンは、なかなか首を縦に振ろうとはしなかった。

「ダメダメ、もう引退した身だし、現役復帰はないよ。もうノーチャンスだよ、飯野」


ノーチャンスを変えた友の想い

初めはあっさり断られたが、引き下がらなかった。そこから事あるごとに、チーム事情や成績を報告し、「だから、もう一度、一緒に戦おう」と何度も、何度も話した。その時のことをルーコンはこう述懐する。   

「飯野から何度も何度も電話やメッセージが届いて、チームは今非常に苦しい状態だという話を聞いた。だから私の力が必要になる、また一緒に戦おうって。ホントに、シツコイぐらいにね(苦笑)」

ルーコンが「分かったよ」と言うまで、その押し問答は続いた。飯野はそのときのことを苦笑いで話す。

「もう一回戻ってこいってしつこくメッセージを送り続け、電話もしました。大熊さんからも『辞めたって言っても1、2カ月だから大丈夫。何とかしてくれ』と言われていた。J2に降格した東京が、大変困難な状況に陥っていて、もしかすると、このままJ1にも上がれない可能性もあること。外国籍選手のけがや、震災の話も含め、心から助けてもらいたいんだと話をしました。彼は、東京に対して恩を感じていた。だからこそ、話をするたびに、だんだん心変わりして助けたい、正義の味方になろうと思ってくれた」

飯野は「引退を撤回した理由は、もう一つあったと思う」と言って続ける。

「あまり口にはしなかったんですが、自分が思い描いた形で引退できなかったことを悔いていた。それが決断を後押しした理由の一つだったと思う。もう一度、サッカーに戻って良い形で現役を終えるのが彼の希望でした。だから、日本に戻ってきたときに、動けない状態じゃいけないって。復帰を決断してから、ブラジルでみっちりとトレーニングを積んでしっかりと体をつくって日本にやってきた」

シーズン序盤こそ苦しんだが、ルーカスが加わった東京はJ2を圧倒的な強さで優勝し、1年でのJ1昇格を決めた。さらに、天皇杯でも次々とJ1クラブを撃破し、決勝の舞台へと駆け上がった。その原動力となったのが、ルーカスだった。「1月1日の天皇杯決勝は、最高の舞台だよ。あそこに立つと気持ちがいいんだ」。そう言ってチームを鼓舞し、京都との決勝戦に臨んだ。

大事な試合前は、いつもそうだった。儀式のように、飯野に頼んでバリカンで短く髪を刈りそろえるのがお決まりだった。あの日も、気合満点の丸刈りと、献身的なプレーでチームをけん引。2得点の大活躍で4-2の勝利に貢献した。


尊重した去り際の美学

その後、ルーカスは2シーズンに渡って東京でプレーし、惜しまれつつも13シーズンを最後に現役へと別れを告げた。飯野は当初、「まだできるよ」と説得したが、ルーカスは決まってこう答えた。

「ボロボロになってベンチに追いやられ、そのままサッカー界を去っていく辞め方をしたくない。みんなに惜しまれながら、ピッチに別れを告げたい」

このときばかりは、ルーカスの美学を尊重した。「頑固なんですよ」と言いつつ、彼が望む形でそのサッカー人生を終えたことを誇らしくも思えた。ルーカスはフランスで失った名声を遠く離れた日本で取り戻し、クラブを救ったレジェンドとしてこの先も語り継がれていくはずだ。その成功譚の陰には、彼に寄り添った裏方がいた。

「僕とルーカスは、もちろん通訳と選手という立場ではありましたが、家族や兄弟のように仕事以上の関係を築けたと思っています。生意気な言い方かもしれませんが、彼が苦しいときは同じ気持ちで僕も苦しんだ。何とかして彼に成功してほしい、頑張ってもらいたいという気持ちでいつもいました。苦しい時期を共に耐え、長いトンネルを一緒に抜け出した経験があるから、より深い結びつきも生まれた。彼が日本で成功を収めたことが本当にうれしかった。もちろんプレイヤーとしても優れていましたが、人間的にもすばらしい選手でした。彼と巡り会えたことは、私にとってラッキーでしたし、財産だと思います。変わらないですよ、これからも関わった選手が少しでも日本で成功してほしいという思いは」

20年間で多くの選手と共に仕事をしてきた。「全員が日本で成功を収めたわけではない」と言うが、「面白いですよ。新しくきた選手や、以前東京にいた選手が別のクラブで、実は一緒にプレーしたことがあるって話もよく聞きます」。ボール一つで世界は広がり、そしてつながっていく。ここには、そんなサッカーの魅力をよく知る通訳がいる。

そうそう、ルーコンと飯野さんは互いを褒め合うとき、必ず開いた掌の上で握った拳を回して「これがうまいんだよね」と白い歯をこぼす。その展開に持ち込めば、密かな楽しみは大成功だ。僕の取材中は、なかなか笑ってくれない飯野さんだが、ボールを蹴っている時は無条件でよく笑う。この人も、転がるボールの側にいたい人なんだと、つくづくそう思う。



◇飯野一徳(いいの・かずのり)・通訳 プロフィール





text by Kohei Baba
photo by Kenichi Arai,Masahito Sasaki