「どうしようもないぐらい好きだ」
僕の先輩記者は、髙萩洋次郎のプレーをそう形容した。
こんなにも飽きっぽい性格なのに、そのプレーは人を飽きさせない。
なぜか? それは、彼の生き方そのものがプレーに宿っているからかもしれない。
正解のない、永遠の追いかけっこ。
それを誰よりも、面白がってきた。
いつからか恋に落ちたサッカーで、誰かを恋に落とす。
髙萩洋次郎は、そのループの真っただ中にいる、今も、これからも。
飽き性な合理主義者
これは、ある種の挑戦だった。
「髙萩洋次郎の生き方を伝えられたら面白いよね」
それをテーマに取材を終え、手応えはあった。だが、文字にするのは難しい。思索に耽る脇で、シャッターを切るカメラマンが軽口をたたいた。
「オレ、洋次郎みたいな顔に生まれたかったんだよね」
確かに、見た目も艶っぽくていい男だ。でも、それ以上に、洋次郎には人を引きつける魅力がある。それを、どう表現するか。これは、どんなミステリーよりも、もの凄く難題だ。それほど不思議なチャームを、彼は持っている。
人が息をつくところには、余白があって無駄も必要だけど、彼は「無駄が嫌い」だという。だからなのか、普段から人より先を読んで行動する。「なぜか?」と聞くと、「せっかちだからじゃないですか?」と言い、こう続ける。
「こうしておけば終わると、先を読むのは無駄をしたくないから。自分がやる以上は、面倒なことはしたくない」
実に合理的で、理路整然とした考え方だ。最短ルートを描き出し、道筋を立てるのがうまい。選手会主催のイベントの準備は、彼が仕切ることで以前よりもずっとスムーズになった。だが、何でもできてしまうから飽き性でもある。「サーフィン、スノボー、ゴルフ、スキューバー…。何でもやった」と、指折り挑戦してきたことを並べる。
「ゴルフ道具一式とか、スキューバーダイビングも免許まで全てそろえた。でも、すぐに飽きてやらなくなってしまった。遊びだから、ある程度できればいい。だから、もういいやってなる」
そんな性分でも、サッカーだけは一途に続けてきた。
「サッカーの場合はそれがうまくいかない。正解がないというか、当たらないほうが多い。だから、唯一飽きていないのかもしれない」
なるほど、『無駄をしたくない』のマクラに、『サッカーのために』をつければ合点がいく。それほどまでに、転がるボールは彼を夢中にしてきたかもしれない。
終わりのない追いかけっこ
「サッカーのどこに一番楽しさを感じたのか?」
そう聞くと、首を傾げて「何でサッカー楽しいんだろ?」。腕を組んで「ずっと楽しいから分からないですね」。『うーん』と唸って「好きだけれど、サッカー観戦は別に好きじゃないし、仕事だと思ったらつまらないと思う」。あれこれ頭を絞って、行き着いた答えはこうだった。
「ずっと子どもみたいに成長できるからじゃないですか。ずっと下手というか、ああしたい、こうなりたいが尽きない。ああすれば良かった、こうすれば良かったがあるから飽きない。逆に、うまくできちゃったら僕はサッカーをやっていない。完璧になったら辞めると思う。でも、完璧がないからずっとやり続けていられる」
その永遠の追いかけっこと生まれ育った福島県いわき市で出会い、ほぼ毎日ボールを蹴り続けてきた。小学5年生で「サッカーのために」と、家から車で1時間掛かるJヴィレッジサッカースクールにも週1回通った。指導者にも恵まれ、メキメキと精神的にも、技術的にも成長してU-15日本代表にも選ばれるようになる。
「U-15日本代表では、中体連の選手は僕ぐらいしかいなかった。ずっとみんなよりも下手だったから、必死についていくだけだった。特に、ウォーミングアップ前の技術練習が大嫌いだった。ゲームになれば良さを出せると思っていたから、早くゲームになれといつも思っていた。僕よりもうまい人はいくらでもいたけれど、実戦の方が良かった。何で? ごまかせるから」
今も自分のことを「サッカーが下手だ」と言う。それでも実戦向きだというのは、そのワンプレー、ワンプレーの前に隠されている。それは今も変わらない。
「どちらかというと、普段の生活も効率良く生きたいタイプだから、本当に無駄に走りたくない。それはもう、走らなくていいんだったら走らないほうがいい。そう思うタイプなので。一本の筋道というか、導線を作りたいじゃないですか。そこで後戻りしたくないじゃないですか、できれば。無駄にしたくないし、楽をしたいので」
だから、「全ては準備」だと言う。一本のパスを通すために、無駄をなくす。視野を確保し、体の向きを整え、ボールの置き所にも細心の注意を払う。事前に、受け手となる選手の特長も把握し、「パスや、キックは練習も試合もそうですが、味方の右足、左足、スペース、足元、パススピードを意識している」。そうした背景が、彼のプレーには密に詰まっている。生き方そのものが宿っていると言っていいかもしれない。
生き方を変えた日
そして、中学卒業と同時に、親元を離れてサンフレッチェ広島ユースへの越境を決めた。テストに合格したが、「地元で楽しくサッカーをしようかな」とも考えた。それを両親の前でこぼすと、「そんな気持ちでサッカーするなら広島に行った方がいい」と背中を押されたからだった。
「行けって言ってほしかったのだと思う。そこで言ってもらえなかったら、自分はサッカー選手にはなれていなかった」
2002年から手にした新たな環境は、驚きの連続だった。「何でこんなにうまいの?速いの?強いの?」と頭の上には「?」が並び、チームメートたちに絶対についていけないと感じた。
「もう教育が違っていた。積極的にボールに行くとか。コミュニケーションをとるとか。育てられ方が、一方は雑草で、もう一方はしっかりと水と栄養を与えられて育てられたかの違い。それぐらいのレベルの差があった。もうレベルが違いすぎて無理だと思った。それでも必死についていっただけ。代表も、ユースも、どうやったら追いつけるのか。このサッカーができるのか。プロになっても、そうだった。新しいチームに移籍してもどうしたらいいか。必死になるだけ。環境が変わる度に、いつも危機感を覚えた」
そうした気づきや学びを通して、髙萩は右肩上がりの成長曲線を描いていく。どんな環境にも溶け込んでしまう感度の高さこそ、最大の武器なのかもしれない。
「Jヴィレッジのスクールに入ったときも、広島のユースに入ったときも、代表、プロに入ったときもそうだった。そういうタイミングで自分の成長サイクルが回っている」
それも無駄をそぎ落とし、『サッカーのために』と、余白を空けていたからこそ、だ。そうしたミニマリストっぽさが、いち早く新たな環境にも順応させてきた。03年当時、16歳8カ月3日でJリーグ最年少出場記録を更新。プロ入り後は、06年に愛媛FCへの期限付き移籍を契機に、広島で不動のレギュラーとして花を開かせた。10年にはJリーグヤマザキナビスコカップでニューヒーロー賞を受賞するなど、耳目を集める存在となりつつあった。
しかし、いつも少し先を見てきた洋次郎が、本当の意味で「変われた」というのは、あの日だった。その日を境に、自らの生き方に一つの考え方が加わる。それまで自分磨きを続けてきた男に、加わったのは「誰かのために」という想い。それが、利己的だった髙萩洋次郎の生き方に深みと重みを与え、今の魅力的な姿をつくり上げる。
2011年3月11日――。
感度の高い彼は、その日起きたことを一生忘れることはない。
(後編へ続く)
※11月6日(水)後編を公開しました。
◇髙萩洋次郎(たかはぎ・ようじろう)プロフィール
text by Kohei Baba
photo by Kenichi Arai,Masahito Sasaki