25年の軌跡 vol.4<br />
降格と優勝で得られたもの

INTERVIEW2023.9.28

25年の軌跡 vol.4
降格と優勝で得られたもの

2010年12月4日の深夜、5日に日付が変わったあとも、京都の飲食店は自暴自棄になり飲んだくれる東京のファン・サポーターで溢れ、ひどいありさまだった。勝てば残留が決まったJ1リーグ最終第34節の京都サンガF.C.戦に敗れ、ヴィッセル神戸と入れ替わって16位に転落。最後はゲームを組み立てるはずの梶山陽平がディフェンスラインから長いボールを蹴るもフィニッシュにつながらず、焦りと混沌が支配する散々な内容でJ2リーグ降格が決定した。

降格の要因は油断だったのかもしれない。最後の10試合は4勝3分3敗で成績が特に悪いわけではなく、第33節のモンテディオ山形戦が引き分けに終わった時点では残留圏内の15位。最終節で引き分けではダメだが、勝てば無条件でJ1リーグに残留できるとあって危機感は薄かった。しかし、いざ勝たなければいけない状態で最終節に臨むとその緊張感は想定以上で、平時のパフォーマンスを発揮できないまま終わった。


1年でのJ1リーグ復帰を志した2011シーズンだったが、新たに獲得したブラジル籍選手3人のパフォーマンスが上がってこない。加えてターゲットマンである平山相太と高松大樹の負傷離脱によって空中戦仕様のチームづくりも瓦解し、東日本大震災による中断明け5試合はカターレ富山相手の勝利が唯一の1勝2分2敗という不振に陥った。危機感が高まり、羽生直剛らがボール保持を中心とする地上戦スタイルへの転換を当時の大熊清監督(2010シーズン途中から2回目の就任)に進言。シーズン中に戦い方を変更する事態になった。

ただ、これがハマった。リーグ戦では徐々に安定した強さを発揮し、最終節を待たずに鳥取の地でJ1昇格決定、さらに味スタでJ2優勝を果たすと、その勢いのままに天皇杯で再びチームを熟成させていった。12月24日の準々決勝で浦和レッズを下した試合後、権田修一がプレスの手応えを語る姿にチームの充実度が感じられた。

勢いに乗って2012年1月1日に迎えた天皇杯決勝は降格時の相手だった因縁の京都との対戦。指揮官は秋田豊監督から大木武監督に代わり難しい相手だったが、東京は完成度と選手の質で上回り、先制点を許したものの4-2で勝利を収めた。「アジアに連れて行きたいと思っていた」という大熊監督の大願成就。初優勝を成し遂げ、京都での悪夢を1年がかりで振り払ってクラブとして初のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)出場を決めた。


1998年10月1日は旧JFLからJ2リーグへとスライドし、J1リーグという頂を見上げるスタートの日だった。しかし2010-2011年のJ2リーグ降格と優勝を経て、勝点とスタイルの構築への意識を高く持たなければいけないという教訓を得た東京の視点は、J1リーグ定着を当然のこととしながらタイトルをめざすというものに一段階底上げされた。2023年10月1日で創立25周年を迎えるなか、クラブとしてもファン・サポーターとしても、目標は常にACL出場権またはタイトル獲得をマストとする厳しいものになっている。

J2リーグ降格という痛みは無駄ではなかった。京都の苦い夜をきっかけに、東京の歴史はより強者の地位をめざす新たな段階を迎えたのだった。



Text by 後藤勝(フリーライター)

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