最前線で身体を張り、時にはゴールで、時には献身的なプレーでチームを支えてきたディエゴ オリヴェイラ。12月8日のセレッソ大阪戦が彼の16年間にわたるプロサッカー選手としてのファイナルマッチとなる。長い選手生活で彼がこだわり続けてきたのは、自分が所属するチームの勝利に貢献するということ。いつの日もチームのことを最優先に置き、ピッチの中でも外でもチームのために自分ができることを考えて走り続けてきた。
果たして彼はどうしてここまで「For the team(フォアザチーム)」にこだわってきたのか。そこには彼が若き日から繰り返してきた素晴らしい出会いと感謝の気持ちがあった。
家族の支えと押し寄せる困難
それは花と雨のサッカー人生だった。ディエゴ オリヴェイラはブラジルの多くの子どもたちが夢見るサッカー選手となって、16年という月日を過ごしてきた。
そして今シーズン限りでそのキャリアに終止符を打つ。振り返ると、雨に打たれ、花を咲かせた半生だった。決して平坦な道を歩いてこなかったからこそ、人の痛みに敏感で、愛に溢れたサッカー選手だった。
たくさんの愛情を注がれた両親から初めて贈られたプレゼントは、ベビー用のスパイクだったという。
「初めてのスパイク? もう幼い頃というよりも、赤ちゃんの頃の話になっちゃうかな。これくらい(10センチにも満たない)の大きさだったよ。きっと、それを履いてプレーはしてないと思うけどね。今でも実家にとってあると思うよ」
7つ上の兄、ヴィニシウスの背中を追うように物心がつくころにはボールを蹴っていた。フットサルをルーツに持ち、「僕がサッカーを本格的に始めたのは人よりも少し遅かった」と言い、こう続ける。
「ピッチでプレーするようになったのは15、6歳のころだったかな。その時父がスパイクをプレゼントしてくれたんだ。両親はどんな時も私を支えてくれた。何度もサッカーを辞めようと思ったことはあった。でも、私を支えるファミリーがいたから今がある。両親や家族がいなかったら今の僕はないんだ」
サッカーへの転向からほどなく地元のパラナクラブのセレクションに合格し、ユースチームでプロをめざめざしてプレーするようになる。だが、トップチームの昇格は叶わず、道は閉ざされたかに思えた。だが、ディエゴは諦めず、夢にしがみついた。
エージェントを通じて、カタールの2部リーグに所属するアル・ミサイマーからプロ入りの話が舞い込んだ。ディエゴはすがる思いで一縷の望みに懸けた。
「19歳になる年にカタールに行ったけど、今の自分があるのも、あの経験があったからこそ。初めての海外経験だったけど、カタールで出会った人たちが私に良くしてくれたことを非常に感謝しているよ」
夢は諦めなければ叶う。それは必死に追いかけてきたボールが教えてくれた。プロキャリアをスタートさせた当時のカタールは、プロリーグが発足して間もなく、2部リーグのレベルはお世辞にも高いとは言えなかった。それに慣れない言語、宗教、食事、気候にも苦しんだ、押し寄せる困難に何度も心が折れそうになった。それでも「自らが選んだ道」と言い聞かせ、2シーズンを過ごした。
2011年に母国にプロサッカー選手として帰還する。途中、韓国の水原三星への移籍を挟み、怪我や挫折を繰り返しながらも多くのチームを渡り歩いた。だが、降り止まない雨などない。2015年に所属したポンチ プレッタで陽の目を見ると、いくつか届いたオファーのなかから日本行きを決断する。それが大きな転機となった。
尊重し合える仲間から注がれた愛情
柏レイソルで成功を収めた2シーズン後、長谷川健太監督が新たに率いる東京からエースとして迎え入れられた。ただし、必死に夢を追いかけてきた苦労人に、一抹の不安がなかったわけではない。そんな時、ふと身体を軽くしてくれる言葉と出会う。短いやりとりだったが、ディエゴにとっては大切な宝物として胸に深く刻まれた。今でも、ディエゴはその時のことを鮮明に覚えているという。
「加入当初にインドネシアでバヤンカラFCと試合をしたんだけど、全然ダメだったんだ。自分のプレーが全くダメで、不安だった。そんな時に健太さんは『心配するな。これから落ち着いてプレーできれば大丈夫だ。君には力があるから』と温かく包み込むように、自信が持てる言葉を掛けてくれた。そこから何とか監督の要望に応えたいと私も力を注いできた。一緒に働き、たくさんの喜びを共有できた。本当に健太さんには感謝の気持ちで一杯だよ」
そこに彼の人間性が詰まっている。注がれた愛情には、愛を持って全力で応えてきた。だから、チームメイト、スタッフ、ファン・サポーター、報道陣とも熱い友情を育んできた。
いつもそうだった。自らの活躍よりもチームの勝利を優先してきた。それは自分が関わってきた人たちを一番笑顔にできるからだろう。
「関わったすべての人が私を尊重してくれました。それが、このサッカー人生のなかで、私が勝ちとった一番大切なものだと思っています。母国のブラジルからは遠く、地球の反対側にある日本で過ごしてきました。遠く離れた、この素晴らしい日本という国の東京という大きな街で、みんなが私をリスペクトしてくれた。それは何にも代え難いほど、非常にうれしいことでした。もちろん私もみんなをリスペクトしてきました。そういったことを得られた、手にできたことが私の大きな財産です」
ディエゴは人生を懸けるクラブと出会い、いくつもの花を咲かせていく。そこには、多くの学びと出会いがあったという。あの時、長谷川監督が自身にそうしたように、今度は率先してディエゴが試合前に若手を呼び止め、こう声を掛けてきたのだ。
「大丈夫だ。心配するな。君には力がある。オレたちがサポートするから何も恐れるな。自分の力を出してくれ」
ともに多くの時間を過ごした戦友・森重真人は「本当にそうした場面を何度も見た」と言い、噛み締めるようにしてこう振り返った。
「チームのエースがああやって声を掛けてくれて、若手も心強かったと思う。チームのために自分を犠牲にしてまで戦ってくれた。一歩ピッチを離れたところでも素晴らしい選手だった。チームメイトやスタッフに対する細かい配慮は、心からそう思っていなければ7年という月日のなかでそういう姿を見せ続けることは絶対にできない。ディエゴの近くで過ごしてきて、本当に人として、男として、学ぶべきことの多い選手だった」
最も近くにいた飯野一徳通訳も「自分もディエゴに救われた一人」と思い出を語る。
「今思い出すと、クラブの事情もあってピッチ通訳から一時離れたことがあった。それは私自身が望んだことではなかったので、正直に話すとその時期は少し落ち込みもしました。そういう時にディエゴは親身になって私に声を掛けて励ましてくれた。また、こうして隣で通訳ができるようになったけど、そのへこんでいた時期に私が逃げ出さなかったのはディエゴの励ましの言葉があったのも大きかった」
さりげない気遣いはクラブで働く人たちや報道陣も知るところだ。ディエゴが「お世話になっているから食べてよ」と、お菓子を差し入れてくれたことが何度もあった。「パーティーをする時は多く作ったり、多めに注文して皆さんに配ったりすることもあったね。私も家族もみんなのことが大好きだったからだよ」と受けとったあのチョコレートには甘さ以上の温もりを感じた。
そして、誰よりも青赤の歌唄いたちが知っている。声援に背中を押され、いつだって全力で応えてきた青赤のエースの姿を。どんなに苦しくとも献身的に戦い、何度もピッチに倒れ込む姿を見てきた。その絆の深さは引退発表直後の明治安田J1リーグ第37節ジュビロ磐田戦の観客席にも現れていた。目に飛び込んできた光景に、ディエゴは目頭を熱くしたという。
「スタンドを見渡すと、本当にたくさんのファン・サポーターが私の9番のユニフォームを掲げてくれていた。本当に感慨深かった。あの場面も良き思い出として自分のなかに残り続けていくはずだ。長い間、良い時も悪い時もあった。それでもファン・サポーターと一緒になって戦えたことは私の誇りです。現役の時にJリーグタイトルをとりたかったけど、残念ながらそれはつかむことはできなかった。でも、私はそれ以上のモノをここで手に入れたと思っている。苦しい時にファン・サポーターが私の名前を呼んで声援を送ってくれたことをあらためて感謝したい。私は日本人ではなく、外国人です。それでも素晴らしいこの日本の首都・東京の素晴らしいチームで私はたくさんのモノを学び得た。ここで成功できたことを本当に心の底から感謝しています。アリガトウ」
叶わぬ夢は次世代へ
後悔がないわけじゃない。2019シーズンに、最終節までリーグ優勝の可能性を残し、あと一歩で逃した。夢追い人の最後の夢は果たせぬまま、悔しさと一緒に胸の奥にしまったままだ。J1リーグでクラブ最多74得点の記録を打ち立てた、青赤史上歴代最高のストライカーは「記録は非常にうれしい。それをまた思い出にしたいと思っているよ。最高だね。でもね……」と言い、こう続けた。
「希望としては、記録をすぐに塗り替える選手が現れてほしい。その数字を追い抜くということは、自分と同じか、自分以上のプレーヤーが東京に生まれたことを意味するからね。そうすれば、きっと私が叶えられなかったJ1リーグのタイトルにこのクラブが近付き、達成できると思っている。そういった選手が1日でも早く出てくることを私は強く望んでいます」
数年前から「このチームで引退する」と決めてきた。薄れることのなかった故郷への思慕と、肉体的、精神的な消耗を引退の理由に挙げた。雨に打たれ、遠く離れた日本で多くの花を咲かせた。その一つひとつを拾い集めて作った花束を握りしめ、ユニフォームを脱ぐ。
「寂しい気持ちで一杯だよ。みんなが私のことをリスペクトしてくれて、私もみなさんに対して最大の敬意を払ってきたつもりだよ。至らないことがあったかもしれないけど、お互いに尊重し合ってここで同じ時間を過ごせたことは本当に幸せだった」
諦めの悪い男の最後の夢は託された。ネバーギブアップ──の精神で突き進んだサッカー人生だった。ディエゴが咲かせた花は、青赤の次世代へと引き継がれる。
2024年12月8日。最後の1日が幕を開ける。
サッカー選手として最後の前日練習を終え、「寂しいけど、清々しい気持ちだよ」と言葉にする。
「東京に、たくさんのことを残せた。お互いに尊重し合えて私は幸せ者だよ。最後の試合で、いろいろな思いが駆け巡るはずだ。自分がもし選べるならゴールをして勝つストーリーを選択するかもね。でも、それは誰にも分からない。私はいつもどおりに精一杯プレーをするだけだよ。私のサッカー人生は、いろいろな人が支えてくれた。それがあったからここまで来ることができた。関わってくれたみなさんのおかげです。どんな感情が湧き出てくるかは私にも分からない。ついに最後が来てしまった。私の人生にとって忘れられない日になるはずだ。泣くかどうかは分からないけど、楽しみにしていてください」
去りゆく英雄に、たくさんの花が味スタのピッチに降り注ぐだろう。きっと雨は降らない。だけど、不思議とディエゴがにじんで映るかもしれない。花と雨のサッカー人生を送ったディエゴ オリヴェイラにふさわしい大団円はそうして幕を閉じようとしている。
Text by 馬場康平(フリーライター)